スピリチュアルな体験をしても等身大の自分を忘れるな

「あこちゃんて、ナチュラルだよね」ってよく言われます。

すごくうれしい言葉なんです。

なぜなら、自然体であること、等身大の自分でいることを

なによりも大切にしているから。

 

 

もう10年以上前になるのですが、

少し心の勉強を始めて、同時にスピリチュア体験をした頃、

調子に乗っていた自分がいたからです。

私は特別だ、という意識。

選ばれたものだ、という意識。

あったんです。

特別な私だから、こうでなくちゃ・・・

選ばれしものだから、こうしなくちゃ・・・

どんどん本来の自分とかけ離れていきました。

ご縁があって、あるエネルギーワークを受けて、起きてきたことの体験でした。

それを施したセラピストは、

「等身大の自分でいてね」と、アドバイスしてくれましたが

そんな助言も吹っ飛んでいました。

あまりにも強烈なスピリチュアルな体験によって、そう思っちゃったんですよね。

そのスピリチュアルな体験は、状態は、長続きすることなく

そのあとは、奈落の底に落ちました・・・キツカッタ・・・

言語化しがたい状況で、今思い出しても苦しいという感覚・・・

う~ん、もう二度とあんな体験したくないです。

それもこれも、体験として起きてきたことなんですよね。

私が、わたしに還るための一つのプロセスだったのだと思います。

魂が起こしてきた、というような感じでしょうか。

奈落の底に落ちてからは、なぜ自分にそのような体験が起きてきたのか

ありとあらゆるスピリチュアルに関する本を読み漁りました。

ほとんどその辺に関してはオタクの領域です。

大概の話は通じてしまう・・・

今では、そのときの経験と、知識がとても役に立っています。

洞察力と、その人の状態を見抜く力がついてしまいました。

エネルギーで感知してしまう。

響きで伝わるから、ホントかウソか、ごまかしか格好つけか

よく観られたいのか、浅いところで話しているのか、などなど

ほとんど一瞬で気づいてしまう。

だからといって、その状態の良し悪しの判断なんか、できやしないのです。

しても意味がない。判断というのは、マインドレベルだから。

ここで大切にしているのは、相手を尊重すること。

その人の全体性(ホーリー)に意識を向けること。

その状態を、今のプロセスを、受容し、

やがてくるであろう変化に、宇宙の神秘への畏敬の念と、驚きと敬意をもって、

いまここに、共にあることなんです。

スピリチュアルエマージェンシーに陥らないために、

私のような苦しい体験をしなくても

健全なスピリチュアルライフを送ることはできます。

普通の主婦が、

道行く人が、

スーツを着た会社員が、

その状態で覚醒して生きることが珍しくない時代になってきたと感じています。

(生活の状態は、なんでもいいのです。山にこもる必要のない時代なんですよね)

それも、かなりのスピードと勢いをもって進んできていると・・・

観える、観えない、は小さなこと。

視覚はほんの一部分にすぎない。

波動を感知する超感覚にゆだねたとき、

起きてくることは、ただ、体験するのみだと気づく。

もし、意味づけするなら、そこで起きてくる、なにもかもが

すべての体験が、愛の学びに帰結する

と、私は信じています。

本来の自分を見失うことなく、魂の目的、役割、命の使命を全うされますように。

なにより、自然体で、等身大の自分でいることの心地よさは

私自身を健全に永続させてくれるのです。

ときに、自我にまみれて偏りが起きることもあります。

でも、人間ですからね。

あえて、ゆるしという言葉を使うなら

人間だから。人間だもの・・・というところに落ち着くんですよね。

愛の学びだったと気づいた時、その出来事は終わりを告げ、

次なる事象へと向かうことになるのでしょう。

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