感情が揺れるとき

誰かの言動や態度に不快な思いを抱くとき、同時に感情が伴います。
そんなときは、ただ感情が揺れているのだなぁ、という気づきを持つことで、
感情に振り回されたり、相手に反応してしまうことが減るでしょう。

自動反応からの脱却には、感情による自分の反応を
客観するスペースを持つことから始まります。
気づく意識をいかに育ててゆくか・・・ということです。

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私の中には時々、そこはかとない悲しみや、心もとなさが湧き上がる時があります。
どこから来ているのだろうか?ずっと抱えていた疑問でした。

その答えが先日、友人のヒーリングモニターを受けたことがきっかけで思い出したのです。
私は母親から生まれてくるとき、逆子だったために帝王切開になりました。

最初から帝王切開だったわけではなくて、なんとか自然分娩をと、母は頑張っていましたが
小柄な母の骨盤は逆子の私を産むための余地がなくて、
おなかの赤ちゃんである私のいのちを優先して、途中で帝王切開に切り替えたそうです。

陣痛という母と赤ちゃんの初めての共同作業。
呼吸を合わせながら、産み、生まれるための、
きわめて原初的な自然の一定のリズムの中で行われる共同作業を
途中でやめざるを得なくなったということ。
その意味するところ。重要性。

私はまぶしい光の中へと、半ば引きずり出されるようにこの世に誕生しました。
人の手によって・・・暴力的にも攻撃的にも感じられる一瞬・・・

訳の分からぬまま、途端に広い空間へと投げ出された体は、
さぞや恐ろしさと不安を抱えていたことでしょう。

力が入り緊張し、硬くなっていたかもしれません。
赤ちゃんだって、ちゃんと感じているのです。

私はこの世に誕生する最初からずれていたのです。

自然な一定のリズムを途中でやめた、切ったという
極めて不安定で不自然な無意識領域にある原初的なつまづきの感覚。

世界の中にいる居心地の悪さ、居場所のない感じ。
いつもある「私ごときが」という信念。
悲しみ、心もとなさ、不安・・・はここにつながっていました。

たましいの資質としての還りたいという衝動には・・・(これもずっとある感覚です)

無防備な状態でいるときに入り込んでくる他者からの無意識の悪意(特に拒絶)に対して、
固まって感じないようにする、黙るという防衛パターンのところついては、
還りたいと天を仰いだときは、頭のてっぺんから少しずつ体に戻そうと意識的にそうすること。

攻撃の視線を外し、やらない自由を選ぶ。
攻撃の視線を受け取らないことにコミットすれば、それはそのまま投げた人に還るだけ。

その攻撃されるという思い込みの奥には、おなかの中から取り出された時の感覚が重なっていました。
私を見つめる目は、攻撃していたわけではない。

私のいのちを助けるためにしたこと。
私を見つめる助産師の目は、やさしく無事に生まれてきてくれたことを喜んでくれたはず。

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このように、心理セラピーではカバーできない領域があります。
そのような時には、私は信頼のおけるセラピスト仲間のネットワークをフル活用して紹介しています。

できないところがあるという自覚はセラピストとして大切な、見失ってはいけない視点だと思っています。

私が大切にしていることは、いかに気づきの意識を育てていくか、です。

いのちの共鳴するところ、ともに今ここに生きていることへの敬意と尊重は、
何にもまして大切にしたいと思っています。

 

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